犬目と郡内史

「都留市史」によると、犬目宿の成立は1601、2年前後と考えられますが確定できません。土橋(犬目)からは縄文時代の石器が発掘されています。幕府は各宿場を開設するにあたり、古い集落を移転させ宿場をつくり、宿場の出入り口は必ず角をつくり、道幅を急に狭くし、寺社を勧請し広い前庭をとらせ集合の場としました。本陣の前も十分広くし、脇本陣や問屋も三点状に間隔をとった配置としています。大勢の人が生活するための水源は、宿中央に引き入れ、十字状に宿中に分水し用水としました。町の家並みは直線上にし、やや高い場所に神社を祀り宿中が見渡せ号令ができるなどの配慮もなされています。(宝勝寺もやや高い場所に建立されています。)1669年の犬目の家の数は44軒(宿内37軒、遍引3軒、土橋2軒、長窪2軒、宿内は北側19軒、南側18軒)でした。1753年には60軒。1805年は61軒。1843年は56軒。1861年は62軒となっています。1730年の村民の生活は、女は機織、男は駄賃稼・山稼をあげをしていました。畑仕事を主に副業の旅籠や機織などが生活を維持していくなかで欠かせませんでした。
 甲州街道は江戸城が万が一攻撃を受けた場合、一時将軍が甲府に退去して甲府城を幕府の拠点として天下に号令しようと非常時に備え、避難路として開設されました。(1602年甲州街道開設のころ、郡内領は1万8千石。1813年は2万9百石。人口は6万2千人で生産高、人口ともほとんど増加していません。)小仏峠は案下道を甲斐から武蔵国に向かう要路としていましたが、1569年小山田信茂が八王子滝山城の北条氏照を攻略して以来、はじめて甲州道が全面開通したと伝えられています。その後、1602年に徳川家康の命により官道として整備がすすめられました。1604年には、旅人の休息と旅程の目安として一里塚の建設がはじめられるなど、約100年後の7代将軍吉宗のころにほぼ完成されました。恋塚(犬目)にある一里塚は江戸より21番目で道の両側にあったようですが、現在は片方のみです。 恋塚は馬宿といわれ、馬はこの宿まできて宿泊しました。なお、宿場口には街道が二筋に分かれる「追分」もあり、一つ道を誤れば全然違うところに行ってしまうなど、追跡軍の攪乱を図る仕組みや、小仏峠、笹子峠を閉鎖すると、郡内甲州街道は一大要塞となります。郡内領は山ひだ多く山間深く、大軍の戦場には適さない場です。川筋や道筋の心得のない者には行動できないように造られています。
 徳川は小山田滅亡後30年間、土用中茶壺を格納するなど岩殿城を監視下においています。また、谷村城は秋元氏によって常に一千の数の鉄砲が1705年まで配備されていました。裏方にある勝山城は1738年まで、茶壷の格納をするなど、甲府に支障がある場合には、谷村城を甲府城の代替えとして活用できるように整備の手をゆるめませんでした。
 郡内地方は耕地が狭く、山間急傾斜地が多く、畑作中心で耕作する生産力の低い地方であったため、小山田氏は、この地方の領民保護育成が積極的に進めていき、多くの寺社の建立するなど民生の安定に力を注ぎました。しかし、1633年、秋元泰朝が領主となって以来、二代富朝(ふさとも)、三代喬朝(たかとも)の72年間にわたり、重税に苦しむ郡内暗黒時代となります。村高の90%の年貢割り当てを強行していました。 1662年以来大凶作になり、谷村代官所には19村の訴えの人たち2万人で埋まったといいます。この時代、訴願を起こすこと自体が違法であるということから、1668年に訴願を起こした代表2名が処刑されています。この処置に対して民衆は怒りと燃え、さらに訴願しますが、打ち首になったものは100名を超えたといいます。1704年秋元氏は川越の地に転任していき、郡内は幕府の直轄となり、年貢は金納となりました。この騒動落着後、郡内の民衆は全村に六道安穏の信仰と悲業な死をとげた霊を供養するため六地蔵を建立したといいます。
 郡内は、山狭の谷間の集落は日照時間が短く霧が深い、湿度が高く養蚕(ようさん)のための桑の栽培に適していました。全国的な生産地として知られていて、奈良、平安時代より相当の生産量があり注目されていました。郡内織が全盛期を迎えた江戸時代の1688年頃〜1780年頃、郡内産業の全収入の90%が養蚕によるもので、生産量は7万疋(ひき)、金額は5万8千両に達しました。この頃1疋で米2俵が購入できました。そして郡内の村々に多くの石仏が建てられ、寺社建立が盛んとなりました。 1733年第一次飢饉、1784年第二次飢饉、1836年第三次飢饉は全国的規模の大飢饉であったようです。なかでも第三次飢饉は死亡や行方不明者は1万8千人に達したといいます。一方、郡内唯一の現金収入である絹、紬織物の暴落と米の高騰がおびただしく、米1駄(馬に背負わせる荷物)と絹1疋(反物2反分)が同価であったが1835年には米1駄に対して絹3疋と米価は3倍の高騰となりました。そのため郡内には米がなくなり、草の根、木の実、木の皮を食用としてわずかに露命を保つ窮状となり、この深刻極まりない状況に郡内農民の代表の申し入れにもかかわらず、谷村の商人は千俵の米を法外な高値で津久井郡に売却しました。代官所の役人も見て見ぬふりをして救済しませんでした。そこで農民たちが立ち上がり、その代表が森武七、兵助(犬目出身)、泰順でした。一揆の目的はあくまで米の売り出しと米の借り受けであって、打ちこわしに終わらないように諭し、14条の綱領を発表し無謀な行動を戒めましたが、一揆勢は数万人に膨れあがり統率が取れなくなってしまいました。これが甲州一揆です。翌年の 1836年には三河で農民一揆、1837年には、大阪で大塩平八郎の乱など全国的に起きました。

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